
上司と部下の一線を、越えてしまった日
By K中村
romance · 2026-04-23
雨上がりの表参道で、婚約破棄された元婚約者の御影千尋と再会した千尋。千尋は、千尋が彼の兄である彰人と会っていることを問い詰める。突然キスをしてきたかと思えば、現れた彰人に「新しい恋人だ」と宣言する。
第1章
上司と部下の一線を、越えてしまった日
降り止んだばかりの雨粒が、表参道の石畳を濡らしていた。水溜まりに映る街灯の光が、まるで宝石のようにキラキラと輝いている。そんな幻想的な光景の中、私は傘もささずに立ち尽くしていた——いや、正確には、動けずにいた。
目の前にいるのは、御影千尋。御影グループの御曹司であり、私の婚約者……だった人。正確には、一週間前に婚約を破棄された元婚約者。
「久しぶりだな、千尋」
低い声が、濡れた空気を震わせた。千尋は、以前と変わらず整った顔立ちをしていた。漆黒のスーツが、彼の持つ冷たい雰囲気をより一層際立たせている。一週間前まで、私はこの腕の中に抱かれていたのだと思うと、まるで別の世界の出来事のようだ。
「…千尋さん」
絞り出すように名前を呼んだ。喉がカラカラに渇いている。何を話せばいいのか、全くわからなかった。
「こんなところで会うとはな。偶然、というには出来すぎている」
千尋はそう言うと、ゆっくりと近づいてきた。その瞳は、まるで獲物を狙う獣のように、鋭く光っている。私は思わず後ずさりしたが、すぐに背中が冷たい壁にぶつかった。逃げ場はない。
「一体、何の用ですか?」
精一杯強がって言った。でも、声は震えていたと思う。千尋は、そんな私を見て、薄く笑った。
「用、か。そうだな……お前に、少し聞きたいことがあってな」
千尋は私の耳元に顔を寄せ、囁いた。その声は、甘く、そして危険な香りがした。
「なぜ、君は僕の兄と会っているんだ?」
兄……? 千尋さんの兄、御影彰人。私の会社の上司であり、千尋さんの腹違いの兄。私は、千尋さんの言葉の意味がわからなかった。
「あ、彰人さんと……? それは、仕事で……」
「仕事、か。二人でレストランで食事をすることが、仕事なのか?」
千尋の声は、さらに低くなった。まるで、氷のように冷たい。私は息を呑んだ。確かに、昨夜、彰人さんと食事に行った。でも、それはプロジェクトの打ち合わせのためだったはず。誰かに見られていたなんて……。
「誤解です、千尋さん。私たちはただ……」
言い訳をしようとした私の言葉を遮り、千尋は言った。
「誤解、か。ならば、証明してみせろ」
千尋は私の顎をつかみ、無理やり顔を上げさせた。その瞳には、激しい怒りが宿っている。そして、次の瞬間、彼は私の唇を奪った。激しく、そして執拗に。私は抵抗することもできず、ただただ彼の激しさに身を任せるしかなかった。突然のことに頭が真っ白になった。
その時、背後から聞き覚えのある声がした。「千尋、こんなところで何をしているんだ?」
振り返ると、そこに立っていたのは、御影彰人だった。彼は、信じられないものを見るような目で、私たちを見つめていた。
千尋は、私からゆっくりと体を離した。そして、冷たい笑みを浮かべながら、兄を見据えた。
「兄さんこそ、こんな時間に何の用ですか?」
兄弟の間に、張り詰めた空気が流れた。私は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
「千尋……これは、一体どういうことだ?」
彰人の声が、震えていた。私は、一体どう答えたらいいのだろうか。
その瞬間、千尋は私の肩を抱き寄せ、高らかに宣言した。
「紹介するよ、兄さん。彼女は、僕の新しい恋人だ」