
やり直せるなら、今度は離さない
By 小林 葵
romance · 2026-04-23
鈴は転職先の会社で、5年前に別れた元恋人の大輝と再会する。大輝は大企業の御曹司で、鈴の入社を知っていた様子。大輝から夕食に誘われ、鈴は動揺する。
第1章
やり直せるなら、今度は離さない
降り止んだ雨の匂いが、鼻の奥をツンと刺激した。五年前、あの雨の日に、私の人生は決定的に狂ったのだから。
「鈴、久しぶり」
背後からかけられた声に、心臓が跳ね上がる。振り返らずともわかる。夏目大輝。私の、たった一度の過ち。
東京駅からほど近いオフィス街、大手IT企業「ネクストイノベーション」本社ビル前。私は今、転職して初めての出社日を迎えていた。まさか、こんな形で彼と再会するなんて、神様はどこまで私を試すのだろう。
「……大輝さん」
震える声で、ようやくそう答えるのが精一杯だった。五年という月日は、私たちをずいぶんと変えた。彼は、以前にも増して洗練された雰囲気を纏い、完璧なビジネスマンに見える。あの頃の、少し影のある大学生の面影は、ほとんど残っていない。
「元気だったか?」
彼はそう言いながら、優しい微笑みを浮かべた。その笑顔が、私を過去へと引き戻す。あの頃の、甘くて苦い記憶が、鮮明に蘇ってくる。
私たちは大学のサークルで出会い、すぐに恋に落ちた。彼は頭脳明晰でスポーツ万能、誰もが憧れる存在だった。そんな彼が私を選んでくれたことが、夢のようだった。けれど、幸せは長くは続かなかった。彼の家柄、そして将来への重圧が、私たちを引き裂いた。
「おかげさまで。大輝さんも、お変わりなく」
平静を装い、そう答える。内心は嵐のように荒れているのに。彼は私の目をじっと見つめ、何かを確かめるように頷いた。
「実は、君がここに来るとは思わなかった。僕も、ネクストイノベーションにいるんだ」
「……そう、なんですね」
動揺を隠せない。まさか、同じ会社で働くことになるとは。しかも、ネクストイノベーションは大輝さんの父親が経営する大企業グループの一角。彼がただの社員であるはずがない。
「人事部は、君の履歴書を見て何も言わなかったのか?」
大輝さんは、少し眉をひそめた。その表情に、私はある疑念を抱く。もしかして、彼は私の入社を知っていた?
「さあ……。特に何も」
「そうか。まあ、いい。とにかく、これからよろしく。葉山さん」
彼はそう言って、軽く頭を下げた。その態度が、私をさらに混乱させる。一体、彼は何を考えているのだろう。ただの偶然なのか、それとも何か別の意図があるのか。
「葉山さん、おはようございます!」
明るい声が、私たちを遮った。同じ部署の同僚らしい女性が、私に笑顔で話しかけてくる。大輝さんは軽く会釈し、オフィスの中へと歩いて行った。私も、同僚に促されるまま、後に続く。
オフィスは活気に満ち溢れ、新しい生活への期待が胸を高鳴らせる。けれど、私の心はざわついたままだ。大輝さんの存在が、私の平穏な日々を脅かすことは間違いない。あの時、別れを選んだはずなのに、なぜ今、再び彼と出会ってしまったのだろう。
その日の夕方、退社時間間際に、大輝さんからメッセージが届いた。「今夜、食事でもどうだ?」と。返信する指が、震えていることに気が付いた。