
毎朝ぶつかるあの人を好きになるわけがない
By 佐藤 由紀
romance · 2026-04-23
宝生綾音は、かつて裏切られた朝霧悠人と再会する。彼は彼女の会社の顧問弁護士として現れ、彼女をサポート役に指名する。過去の記憶が蘇る中、綾音は悠人から「偽物の恋人」になることを要求される。
第1章
毎朝ぶつかるあの人を好きになるわけがない
降り止んだばかりの雨が、表参道の石畳を濡らし、まるで磨かれた鏡のように景色を映し出していた。そんな眩しい光景の中で、私の人生は音を立てて狂い始めた——あの男、朝霧悠人との再会によって。
「まさか、こんなところで会うとはね、宝生さん」
背後から響いた、甘く囁くような声。聞き覚えのある、けれど、決して聞きたくなかった声。ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは、5年前に私を地獄に突き落とした男、朝霧悠人だった。
彼の顔は、5年前と変わらず、完璧だった。整った顔立ち、涼しげな目元、そして、人を惹きつけてやまない微笑み。しかし、その微笑みの裏に隠された冷酷さを、私は知っている。いや、骨の髄まで刻み込まれていると言っても過言ではない。
「朝霧…さん」
震える声で、彼の名前を呼ぶのが精一杯だった。5年間、必死に忘れてきた過去が、まるで洪水のように押し寄せてくる。あの日の絶望、裏切り、そして、失った夢。
「お元気そうで何よりだ。宝生さんが、こんな一流ブランドの広報として活躍しているなんて、想像もしていなかったよ」
彼の視線が、私の胸元に付けられた社員証に向けられる。私は慌ててそれを握りしめた。今の私は、過去の私とは違う。過去の傷を乗り越え、自分の力で今の地位を築き上げた。しかし、朝霧悠人を前にすると、まるで5年前の、無力な私に戻ってしまうような気がした。
「お陰様で」
精一杯、冷静さを装って答える。しかし、私の内心を見透かすように、朝霧悠人はさらに言葉を重ねた。
「それにしても、奇遇だね。僕も今日から、この会社の顧問弁護士として働くことになったんだ」
彼の言葉に、全身の血の気が引いていくのがわかった。顧問弁護士? よりによって、なぜ彼が?
「まさか…」
「まさか、じゃないよ。これから、毎日顔を合わせることになるだろうね、宝生さん」
朝霧悠人は、楽しげに微笑む。その目は、獲物を狙う獣のように、鋭く光っていた。
「お仕事、頑張ってね」
そう言い残して、彼は悠然と歩き去っていく。残された私は、まるで抜け殻のようだった。これから、毎日、あの男と顔を合わせなければならない。5年前の悪夢が、再び繰り返されるのだろうか。
その日の午後、私は広報部長に呼ばれ、告げられた。
「宝生さん、今回の新プロジェクト、朝霧先生が担当することになった。あなたは、彼のサポート役として、プロジェクトチームに入ってもらう」
部長の言葉が、頭の中で木霊する。サポート役? よりによって、なぜ私が? これは、偶然ではない。朝霧悠人は、私を陥れるために、周到に計画を練っていたのだ。
その夜、私は眠れなかった。5年前の記憶が、鮮明に蘇ってくる。あの日の、朝霧悠人の冷たい言葉、絶望に染まった光景……そして、失われた、私の夢。
翌朝、出社すると、デスクには一通の封筒が置かれていた。差出人の名前はない。不審に思いながら封を開けると、中には一枚の写真が入っていた。それは、5年前の、私と朝霧悠人が写った写真だった。しかし、その写真には、赤いインクで大きく×印が付けられていた。
写真の裏には、手書きの文字でこう書かれていた。「お久しぶり。ゲームの始まりだよ」
私は、背筋が凍り付くのを感じた。これは、宣戦布告だ。朝霧悠人は、私に復讐するために、動き出したのだ。そして、私は、そのゲームに巻き込まれてしまった。
震える手で、携帯電話を取り出す。誰かに助けを求めたい。しかし、誰に相談すればいいのかわからない。5年前のことは、誰にも話していない。打ち明けたところで、信じてもらえるだろうか。
途方に暮れていると、携帯電話が鳴った。画面に表示されたのは、見慣れない番号。恐る恐る電話に出ると、聞こえてきたのは、あの男の声だった。
「どうしたの、宝生さん。プレゼントは気に入った? これから、毎日、君を飽きさせないよ」
電話の向こうで、朝霧悠人は楽しげに笑った。その声は、まるで悪魔の囁きのようだった。そして、彼は最後にこう言った。
「明日の夜、7時。例の場所で待っている。来なかったら…どうなるか、わかるよね?」
電話は、一方的に切れた。私は、携帯電話を握りしめたまま、立ち尽くしていた。例の場所…それは、5年前、私たちが別れを告げた、あの場所だった。
明日、私は、あの場所にいかなければならない。朝霧悠人が、私に何をしようとしているのか、見届けなければならない。しかし、もし、それが、再び地獄への入り口だとしたら…?
恐怖と不安に押しつぶされそうになりながら、私は、小さく呟いた。「…わかった」と。
そして、翌日の夜、私は、震える足で、約束の場所へと向かった。そこで私を待ち受けているのは、一体何なのだろうか——。
その場所は、表参道から少し離れた、静かな裏路地にひっそりと佇む、小さなイタリアンレストランだった。5年前、私たちはよくここで食事をした。思い出の場所。しかし、今は、忌まわしい記憶を呼び起こす、呪われた場所だ。
店の前に立つと、中から見覚えのある人影が見えた。朝霧悠人だ。彼は、窓際の席に座り、グラスを傾けていた。その姿は、まるで絵画のように美しかった。しかし、その美しさの裏に隠された、底知れない闇を、私は知っている。
深呼吸をして、覚悟を決める。私は、店のドアを開けた。その瞬間、朝霧悠人は顔を上げ、私を見て、微笑んだ。しかし、その微笑みは、5年前とは違っていた。冷たく、そして、残酷な笑みだった。
「よく来たね、宝生さん」
彼は、立ち上がり、私に近づいてくる。その足音は、まるで死神の足音のように、私の心臓を締め付けた。
「さあ、座って。ゆっくり話そうじゃないか」
朝霧悠人は、私のために椅子を引いてくれた。しかし、私は、その椅子に座ることができなかった。彼の視線が、私を縛り付けて離さない。まるで、蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように、身動きが取れない。
「…何を話すの?」
震える声で、彼に問いかける。朝霧悠人は、グラスを置き、ゆっくりと口を開いた。
「5年前のことだよ。君が、僕を裏切った、あの日のことだ」
彼の言葉に、私は息を呑んだ。やはり、彼は、あの日のことを根に持っているのだ。そして、私に復讐するために、周到に計画を練ってきたのだ。
「私は…」
何か弁解しようとしたが、言葉が出てこない。5年前のことは、私にとっても、決して忘れることのできない、辛い記憶だった。しかし、それは、朝霧悠人にとっても同じだったのだ。
「君は、僕の人生を狂わせた。僕の夢を、希望を、すべて奪った。だから…」
彼の声が、低く、そして、重く響く。朝霧悠人は、私に近づき、耳元で囁いた。
「…君にも、同じ苦しみを味わってもらう」
その言葉を聞いた瞬間、私は、全身が震え上がった。朝霧悠人は、本気だ。彼は、私を徹底的に追い詰めるつもりなのだ。
「さあ、ゲームの始まりだよ、宝生さん。覚悟はいい?」
そう言うと、朝霧悠人は、私の手を取り、優しく微笑んだ。しかし、その目は、氷のように冷たかった。私は、恐怖に震えながら、彼の目を見つめ返した。そして、その瞬間、私は、あることに気が付いた。朝霧悠人の瞳の奥に、微かな光が宿っていることに。
それは、憎しみだけではない、何か別の感情——まるで、過去の傷を癒そうとするかのような、微かな光だった。そして、その光を見た瞬間、私は、かすかな希望を抱いた。もしかしたら、朝霧悠人は、私を許してくれるかもしれない。もしかしたら、私たちは、過去を乗り越え、新たな関係を築けるかもしれない。
しかし、その希望は、次の瞬間、打ち砕かれた。朝霧悠人は、突然、私の手を強く握りしめ、こう言ったのだ。
「ただし、そのためには、君に、あることをしてもらわなければならない」
彼の言葉に、私は戸惑いを隠せない。あること? 一体、何をさせようとしているのだろうか。
「それは…」
私が問い返そうとした瞬間、朝霧悠人は、私の口を塞いだ。しかし、それは、キスではなかった。彼は、私の耳元で、冷たい声で囁いたのだ。
「…僕と、偽物の恋人になってくれ」