離婚届を出す日に、夫が泣いた

離婚届を出す日に、夫が泣いた

By A伊藤

romance · 2026-04-23

榊若菜は氷室樹との契約結婚を解消しようとするが、樹から新たな条件を突きつけられる。それは、病気の祖父を騙すための偽りの婚約者を演じることだった。しかし、契約書には恐ろしい一文が隠されており、若菜は絶望する。

第1章

離婚届を出す日に、夫が泣いた

「氷室さん、お願いがありますの。」

榊若菜は、震える声でそう言った。六本木ヒルズを見下ろす高級レストランの一室。夜景が宝石のように輝いているが、若菜の心は鉛のように重かった。向かいに座る氷室樹は、日本のIT業界を牽引する氷室グループの御曹司。冷たい眼差しが、若菜を射抜く。

「榊さん、僕も君に言いたいことがある。そろそろ、この関係を終わらせようと思っているんだ。」

予想通りの言葉だったが、胸に突き刺さる痛みを抑えきれない。一年前に交わした契約結婚。それは、若菜の家族の会社を救うための苦肉の策だった。氷室グループの支援を得る代わりに、若菜は樹の妻になることを選んだのだ。しかし、愛のない結婚生活は、若菜の心を蝕んでいった。

「承知いたしましたわ。氷室様のご意向に従います。」

若菜は気丈に答えた。涙がこぼれないように、必死に堪える。契約は契約。終わる時が来ただけだ。そう自分に言い聞かせた。

「ただし、」樹は冷酷な笑みを浮かべた。「契約を解消するには、条件がある。」

若菜は息を呑んだ。条件?そんなものは契約書には書かれていなかったはずだ。

「君には、まだ僕に利用価値があるんだよ、榊さん。」

樹は立ち上がり、若菜に近づいた。その鋭い眼差しは、獲物を狙う肉食獣のようだった。

「次のプロジェクトに必要なんだ。君の、その…美貌と才能がね。」

樹は若菜の耳元で囁いた。甘い言葉とは裏腹に、その声は冷酷で、若菜の背筋を凍らせた。若菜は震え上がった。彼はいったい何を企んでいるのだろうか。まさか、また何かとんでもない契約を結ばされるのだろうか。不安が若菜の心を締め付けた。

「どうする?榊さん。僕の条件を呑むか、それとも…」

樹は若菜の顎を持ち上げ、その瞳を見つめた。若菜は、その奥に潜む狂気を感じた。この男は、一体何者なのだろうか。一年間、共に暮らしてきたはずなのに、何も知らなかったのかもしれない。

若菜は、恐怖で声が出なかった。しかし、家族のために、会社のために、そして何よりも、自分のために、立ち向かうしかない。

「…条件を、お聞かせください。」

絞り出すような声で、若菜は答えた。樹は満足そうに微笑んだ。

「君には、僕の『偽りの婚約者』を演じてもらう。」

若菜は、意味が分からなかった。偽りの婚約者?彼は一体何を言っているんだ?

「だが、それは表向きの顔だ。本当は、僕の祖父を騙すための芝居なんだよ。」

氷室グループの会長である樹の祖父は、病に伏せている。余命宣告を受けた老人は、樹の結婚を心から願っているのだという。

「祖父は、僕の結婚を心待ちにしている。だが、僕は結婚する気はない。だから、君に『婚約者』を演じてもらう。ただし、祖父の前だけだ。」

樹の計画は、あまりにも突飛だった。しかし、若菜には拒否する理由がなかった。今の彼女には、彼に逆らう力はないのだ。

「…分かりました。お引き受けいたします。」

若菜は覚悟を決めた。再び、氷室樹という男に利用されることを。しかし、今度は違う。今度は、自分のために戦う。絶対に、彼の思惑通りにはさせない。若菜は、心に誓った。

その夜、若菜は自室で契約書を読み返した。契約期間は一ヶ月。その間、若菜は氷室家の人間として、樹の婚約者として振る舞わなければならない。そして、契約が終了すれば、若菜は自由になる。そう、自由になるはずだった。

しかし、契約書の最後のページに、若菜は見慣れない一文を見つけた。

『契約期間中、榊若菜は、氷室樹の完全な支配下に入るものとする。』

若菜は息を呑んだ。完全な支配下?そんな馬鹿な。これは、一体どういうことだ?

その時、背後から声がした。「見つけた?僕からの、最後のプレゼントだよ。」

振り返ると、樹が立っていた。その目は、狂気に満ちていた。

「さあ、榊さん。ゲームの始まりだ。」

樹は不気味な笑みを浮かべた。若菜は、絶望に打ちひしがれた。彼女は、一体どこに連れて行かれるのだろうか。そして、これから一体何が起こるのだろうか。若菜の未来は、闇に包まれていた。

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