先生の唇は、授業より甘かった

Chapter 3 — 宵闇の取引、硝子の涙

職員室の重苦しい沈黙は、まるで水滴が落ちる音さえも拾い上げるかのようだった。

「…そういうことだ、天海先生」

田中先生は、疲労の色を隠せない表情で、深いため息をついた。

「瀬戸さんの父親から、正式に学校にクレームが入った。娘と教師の不適切な関係、と。学校としては、無視できない話でね」

天海は、ただ俯くことしかできなかった。和花からの告白。あの衝動的なキス。そして、父親の激昂。すべてが、まるで悪夢のように頭の中で繰り返される。

「和花さんから、何か話はあったかね?」

田中先生の問いかけに、天海は首を横に振った。先ほどの電話での、あの絶望的な言葉。「お父さんが、借金のかたに私を…」。その声が、耳から離れない。

「…いいえ。彼女は、ただ…」

言葉に詰まる。彼女はただ、純粋な想いをぶつけてきただけではないのか。そして、その純粋さが、彼女自身をこんなにも危険な状況に追い込んでいる。

「とにかく、学校としては調査を進めないといけない。君にも、事情を聞かせてもらうことになるだろう」

田中先生の言葉は、天海にとって、さらに重い鎖となった。教師としての立場、生徒を守る責任。そして、和花への、言葉にできない感情。それらが、彼を四方八方から締め付けてくる。

職員室を出ると、放課後の廊下はすでに静まり返っていた。窓の外は、茜色から紫へと移りゆく空。まるで、これから訪れるであろう、暗い夜を予感させるかのようだ。

天海は、自宅への道を、ただ茫然と歩いていた。和花の父親が、一体誰と、どのような「取引」をしているのか。その情報が、電話の向こうの誰かによって、断片的に彼女に知らされてしまった。それは、彼女が抱える借金問題の深さを物語ると同時に、和花自身が、その取引の「商品」として扱われようとしていることを意味していた。

「和花…」

思わず、彼女の名前を呟く。あの、無邪気な笑顔。あの、真っ直ぐな瞳。すべてが、この状況から守ってやりたいと思わせる。しかし、教師である自分が、その感情に身を任せることは許されない。

その時、スマートフォンの着信音が鳴った。見慣れない番号だった。一瞬ためらったが、もしかしたら和花からかもしれない、という淡い期待から、天海は通話ボタンを押した。

「もしもし、天海ですが」

『…先生、助けて…』

電話の向こうから聞こえてきたのは、震える、和花の消え入りそうな声だった。

「和花! どうしたんだ、落ち着いて話してくれ!」

『お父さんが…! 家に、知らない人が来て…! お父さんが、取引の話を…!』

和花の息遣いが荒くなる。切迫した空気が、電話越しに伝わってきた。

『先生、来てください! お願い!』

その声は、恐怖に満ちていた。天海は、迷うことなく、和花の家の住所を尋ねた。

「今から行く! 警察には…」

『ダメ! 警察は…!』

和花は、何かを必死に訴えようとしたが、その声は途切れ、電話は一方的に切断された。

「和花! 和花!」

呼びかけても、返事はない。ただ、無機質な呼び出し音が響くだけだ。

天海は、拳を強く握りしめた。教師としての立場、学校からの圧力、そして彼女の父親が抱える問題。すべてが、彼を足止めしようとするかのように重くのしかかる。だが、あの声を聞いてしまった以上、彼はもう、傍観者ではいられなかった。

彼は、和花の家へと、駆け出した。

数分後、暗闇に包まれ始めた住宅街の一角。静まり返った一軒家の前に、天海は息を切らして立っていた。

「和花!」

声をかけるが、返事はない。玄関のドアは、わずかに開いていた。不気味な静寂。まるで、何かが起こったことを示唆しているかのようだ。

天海は、意を決して、その開いたドアに手をかけた。軋む音と共に、ドアがゆっくりと開く。

部屋の中は、電気もついておらず、暗闇に包まれていた。そして、その暗闇の奥から、かすかな、しかしはっきりと聞こえる、すすり泣く声。

「…誰か、いるのか?」

天海が静かに呼びかけると、暗闇の中から、ゆっくりと人影が姿を現した。

それは、和花ではなかった。そこには、黒いスーツに身を包んだ、冷徹な目つきの男が立っていた。男の指先には、タバコの火が、暗闇の中で鈍く光っている。

男は、天海を値踏みするような視線で一瞥すると、ゆっくりと口を開いた。

「…待っていたよ、教師さん」

その声は、氷のように冷たく、そして、底知れない闇を孕んでいた。