財閥三兄弟の末っ子が私を離さない

Chapter 3 — 漆黒の髪、虚ろな瞳

庭園に響く微かな水音に、涼香は我に返った。美咲が現れてから、まるで時間が止まったかのようだった。姉の、あの冷たい微笑み。そして、司の、涼香には向けられない温かい視線。すべてが、絵空事のように現実感を欠いていた。

「涼香様、お加減いかがですか?」

背後から声がかかり、涼香はびくりと肩を震わせた。振り向くと、執事らしき男が恭しく頭を下げている。先ほどから、この広大な庭園に涼香とこの執事以外、人の気配はなかった。

「ここは…どこなの?」

掠れた声で尋ねる。記憶が、断片的にしか蘇らない。昨夜の披露宴、司の冷たい言葉、そして、この見知らぬ部屋で目覚めたこと。

「水無月様の別邸でございます。奥様が、ご気分を害されたかと存じ、こちらへお連れいたしました」

別邸。つまり、水無月家の本宅ではないということだ。そして、司が、自分をここに? 涼香の胸に一抹の希望が灯りかけるが、すぐに消えた。司のあの態度。美咲に寄り添う姿を見て、希望など抱けるはずがなかった。

「姉は…美咲は、どこ?」

「桜庭様でございますか? 先ほど、水無月様とお部屋へお戻りになりました」

「…そう」

喉がカラカラに乾く。美咲が、司の隣に。あのウェディングドレス姿で。涼香の心臓が、鉛のように重くなった。

「私に、できることはありますか?」

執事は、涼香の様子を窺うように尋ねた。

「…ええ。少し、一人にしてほしい」

執事は一礼すると、静かに後ずさり、涼香を一人にした。涼香は、噴水から流れ落ちる水を見つめた。水音は、まるで涼香の涙の音のようだった。

なぜ、美咲が? なぜ、司は美咲に寄り添う? 姉の顔が脳裏に浮かぶ。いつも、涼香のすべてを羨ましがり、妬んでいた姉。涼香の婚約者である司でさえ、美咲は虎視眈々と狙っていたのかもしれない。そして、あの手紙。「逃げろ」という言葉。あれは、誰が、何のために? 司なのか? それとも…。

涼香は、指先でドレスの裾を握りしめた。このまま、ここで泣いていても何も変わらない。逃げる? どこへ?

ふと、庭園の隅に置かれた、古びた石像に目を留めた。その台座に、何かの文字が刻まれているように見えた。気になって、涼香はゆっくりと歩み寄った。

それは、古賀グループの旧紋章だった。そして、その下には、かすかに、しかし確かに、一組のイニシャルが彫られていた。「S.M.」。

「S…M…?」

水無月司のイニシャルだ。なぜ、こんな場所に、古賀グループの紋章と共に、司のイニシャルが?

その時、庭園の向こう、木々の影から、誰かが自分をじっと見つめている気配を感じた。冷たい視線。それは、司の視線だった。

涼香は、息を呑んだ。司は、涼香がこの石像に近づくのを、ずっと見ていたのか? なぜ?

涼香が、司が立っているであろう木々の方へ顔を向けようとした瞬間、背後から、力強い腕が涼香の肩に回された。

「涼香様、お探しいたしました」

その声は、先ほどの執事とは違う。低く、落ち着いた、しかしどこか威圧的な響きを持っていた。涼香が振り返る間もなく、その人物は涼香を強く抱き寄せた。

「…離して!」

必死にもがく涼香。腕の力は強く、逃れることはできない。そして、その人物の胸に顔を押し付けられる形で、涼香は相手の顔を見た。

漆黒の髪。そして、その瞳は、まるで夜空のように深く、涼香のすべてを見透かすような、虚ろな光を宿していた。

「司…?」

その声は、震えていた。腕に力を込めた人物は、涼香の耳元で、囁いた。

「あなたは、もうどこにも行けない」

その言葉は、涼香の心臓を鷲掴みにした。逃げろ、という手紙の言葉とは正反対の、絶対的な宣告。涼香は、この腕の中から、逃れる術を失ったことを悟った。

「なぜ…」

涼香が、絞り出すように尋ねると、司は涼香の髪に顔を埋め、低く、しかしはっきりと告げた。

「君は、僕のものだ。誰にも、渡さない」

その言葉は、愛の告白ではなかった。それは、所有物への宣言。涼香の未来は、この男の腕の中に、完全に囚われたのだ。