名家の花嫁は逃げ出したい
Chapter 3 — 偽りの指輪、真実の吐息
帝国ホテルの豪華絢爛な「鳳凰の間」は、華やかなドレスとタキシードに身を包んだ人々で溢れていた。シャンパンの泡がグラスの中で弾ける音、軽やかな会話、そして遠くから聞こえる生演奏。その全てが、望月久遠にとっては現実離れした光景だった。
「久遠さん、こちらが私の両親です」
背後から聞こえた二階堂丈の声に、久遠は息を呑んだ。ゆっくりと振り返ると、そこには威厳に満ちた老夫婦が立っていた。父親は鋭い眼光を放つ、厳格そうな男性。母親は優雅で品があり、しかしその瞳にはどこか世慣れた冷たさが宿っているように見えた。
「…初めまして。望月久遠と申します」
久遠は、かろうじて絞り出した声で挨拶した。心臓が早鐘のように打ち、手足が冷たくなっていくのを感じる。丈が、まさか本当に両親に自分を紹介するとは思わなかったのだ。しかも、「婚約者」として。
「…娘さん、お会いできて嬉しいわ」
母親は微笑んだが、その目は久遠の全身を品定めするかのように見つめていた。久遠は、自分が着ている数万円のドレスが、この場にいる他の女性たちのオートクチュールに比べていかに見劣りするかを痛感せざるを得なかった。
「丈には、ずいぶん前に許嫁がいると聞かされていたが…まさか、君だったとは」
父親は、久遠の顔をじっと見つめながら言った。その言葉に、久遠の思考は一時停止した。許嫁? 丈に、許嫁がいた?
「父さん、それは…」
丈が何かを言おうとしたが、父親はそれを手で制した。
「いや、いい。君が望月久遠さんで間違いないのだな? 丈が、君にずいぶんと惹かれていると聞いている」
「…」
久遠は何も言えなかった。丈が自分に惹かれている? 偽装婚約のはずなのに、一体どういうことだ? 丈の視線が、久遠に注がれる。その瞳は、まるで「すべては計画通りだ」とでも言っているかのようだった。久遠は、自分が丈のゲームの駒にされているような、得体の知れない不安に襲われた。
「丈、君は早くに家督を継ぐと聞いている。そして、君の結婚は家の存続に不可欠だ。この望月さんが、君の、そして二階堂家の未来を担ってくれることを期待している」
父親の言葉は、久遠の耳には冷たい宣告のように響いた。これは、単なる偽装婚約ではないのかもしれない。丈は、この場を利用して、両親に自分を「本物の婚約者」であるかのように印象付けようとしているのではないか? そして、そのために自分をここに連れてきたのだ。
「あの、丈さん、少しお話が…」
久遠は、丈の手をそっと引こうとした。しかし、丈はそれを微かに避け、久遠の指先が彼の冷たいスーツの生地に触れるだけだった。
「久遠さん、少し疲れているようだね。お父さんとお母さん、彼女は少し体調が優れないようなので、今日はこれで失礼させてもらうよ」
丈は、流れるような仕草で久遠の腕を取り、人混みの中へとエスコートし始めた。残された両親は、満足げな、あるいは何かを企むような複雑な表情で二人を見送っていた。
ホテルの喧騒から離れた、静かなラウンジに通された久遠は、まだ混乱していた。
「丈さん、一体どういうつもりですか? 許嫁がいたなんて、聞いていませんし、それに…」
「大丈夫だ、久遠さん。すべては、僕の計画通りだ」
丈は、久遠の隣に座り、彼女の肩に手を置いた。その手は、先ほどよりもずっと温かかった。
「僕の両親は、僕が君と真剣に交際していると信じている。あの紹介は、彼らを安心させるための、僕にとっての最善策だったんだ」
「でも、許嫁の話は?」
「あれは…そうだな、昔の話だ。もう、ほとんど意味をなさない」
丈は、久遠の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、迷いも、嘘も、ないように見えた。しかし、久遠の心には、拭いきれない疑念が残っていた。
「…本当ですか?」
「ああ。だから、君は僕の隣にいればいい。僕の『婚約者』として。そうすれば、君も、僕も、この窮屈な状況から抜け出せる」
丈は、久遠の左手にそっと触れた。そして、ポケットから小さなベルベットの箱を取り出した。
「これは、君に、僕の『婚約者』でいてもらうための、ささやかな印だ」
箱が開かれると、中にはダイヤモンドが輝く、シンプルなプラチナの指輪が収められていた。それは、久遠がこれまで見たどんな指輪よりも美しく、そして…重かった。
「…こんなもの、私には」
「これは、君への贈り物ではない。僕たちの『契約』の証だ。君が、僕の隣にいるという、証」
丈は、久遠の左手薬指に、そっと指輪をはめようとした。久遠は、その指輪が自分の人生を大きく変えてしまうような気がして、身を引こうとした。しかし、丈の指は、彼女の指をしっかりと掴んでいた。
その時、ラウンジの入り口に、見慣れた影が二つ現れた。
「あら、丈。こんなところで、一人で何をしているのかしら?」
それは、丈の母親と、そして…昨日、久遠が取引先で顔を合わせた、冷たい雰囲気の女性だった。彼女は、丈の母親の隣で、久遠の左手の指輪に、驚きと、そしてかすかな敵意を込めた視線を送っていた。
「…!」
久遠は、凍りついた。彼女は、丈の母親の隣で、丈の父親が言っていた「許嫁」ではないのか?
「お母さん…それに、あなたも…」
丈の声には、隠しきれない動揺が混じっていた。久遠は、丈の表情から、これが「計画通り」ではないことを悟った。そして、目の前の女性が、丈にとってどれほど重要な存在なのかを。
「…誰?」
丈の母親は、久遠を値踏みするように見ながら、冷たく尋ねた。その視線には、好奇心よりも、排除しようとする意志が強く宿っているように見えた。
久遠は、丈の顔を見上げた。彼の瞳は、焦りと、そして、久遠には理解できない、深い苦悩に揺れていた。この指輪は、本当に「契約の証」なのか? それとも、丈の「計画」は、今、崩壊し始めているのだろうか?
彼女の左手薬指には、美しく輝く指輪が、すでに、はめられていた。