やり直せるなら、今度は離さない
Chapter 3 — カフェの影、遠い約束
駅前のカフェ。午後の日差しが窓ガラス越しに差し込み、テーブルの上のコーヒーカップを淡く照らしていた。五十嵐部長の突然の登場に、葉山鈴は心臓が跳ね上がるのを感じた。まさか、こんなところで彼女に会うなんて。
「あら、五十嵐部長!こんにちは」
夏目大輝が、いつものように余裕のある微笑みを浮かべて部長に挨拶をした。その声には、微かな驚きと、それ以上の何か、計算されたような響きがあった。
「こんにちは、夏目さん。…え?夏目さんも、ここの常連さんでしたっけ?」
部長は少し戸惑いながらも、親しみやすい笑顔を返した。
「いや、まさか。今日は、偶然…」
大輝は言葉を濁し、ちらりと鈴に視線を向けた。鈴は、部長に気づかれないように、必死で俯いてコーヒーカップの縁を指でなぞった。心臓が早鐘を打っている。こんな状況、どう説明すればいいのか。
「…おや?葉山さんも、いらっしゃったんですね!いやー、偶然って重なるものですね!」
部長は、鈴の存在に気づくと、さらに目を輝かせた。「夏目さんと、葉山さん。もしかして、お二人って、ご、ご関係は…?」
部長の言葉に、鈴は息を呑んだ。大輝は、まるでそれを待っていたかのように、ゆっくりと鈴の方を向き直り、優しく、しかし有無を言わせぬ力強さで微笑んだ。
「はい、部長。彼女は僕の…」
「…いいえ!」
鈴は、大輝の言葉を遮るように、思わず声を張り上げた。カフェのざわめきが一瞬、静まったように感じられた。部長は驚いた顔で鈴を見つめ、大輝の表情には、一瞬、氷のような冷たさが走ったのが見えた。だが、それもすぐに消え、いつもの穏やかな笑みに戻った。
「…すみません、部長。彼とは、もう関係ありません。ただの、元カレです」
鈴は、震える声で、しかしはっきりとそう言った。過去との決別を、ここで、この場で、宣言したかった。大輝に、そして何よりも自分自身に。
部長は、状況を察したのか、少し気まずそうに咳払いをした。「あ、そうでしたか…。いや、大変失礼いたしました。まさか、お二人がそんなご関係だったとは…」
「いえ、こちらこそ、こんなところで…」
鈴は、深々と頭を下げた。大輝は、何も言わなかった。ただ、鈴から視線を外し、窓の外をぼんやりと見つめている。その横顔には、読めない影が落ちていた。
部長は、場を和らげようと、無理に明るい声を出した。「いやはや、驚きました!でも、これも何かの縁ですね!ところで、葉山さん、例のプロジェクトの件ですが…」
部長は、仕事の話を始め、鈴もそれに必死で応えようとした。しかし、意識は半分以上、隣に座る大輝の存在に囚われていた。
彼が、あの時、本当に言おうとしていたこと。謝罪、それとも…? そして、今、この「元カレ」という言葉を聞いて、彼は何を思っているのだろう。
部長が席を立った後、カフェには再び二人きりになった。沈黙が重くのしかかる。鈴は、もう一度、彼に話を聞こうか迷った。しかし、勇気が出なかった。
「…そうか。元カレ、か」
大輝が、静かに呟いた。その声には、感情の起伏がないように聞こえた。
「…うん。もう、あの頃とは違うから」
鈴は、決意を込めて頷いた。
「そうだな。君も、僕も、あの頃とは違う」
大輝は、ゆっくりと立ち上がった。鈴も、つられて立ち上がる。
「今日のところは、これで失礼するよ。…でも、また、話そう」
そう言って、大輝は鈴の顔をまっすぐに見つめた。その瞳には、先ほどまでの冷たさも、余裕のある微笑みもない、ただ、純粋な、強い光が宿っていた。
「…え?」
鈴が戸惑いの声を漏らした瞬間、大輝は、彼女の手にそっと触れた。ひやりとした指先の感触。そして、彼は、鈴の左手の薬指に、何もつけずに、ただ指を滑らせた。
「…忘れないでくれ、鈴」
そう囁き、大輝はカフェを出て行った。残された鈴は、彼が触れた指先の冷たさに、ただ立ち尽くすしかなかった。元カレ、と突き放したはずなのに、彼の言葉と、あの指先の感触が、胸を締め付ける。
その夜、自宅に戻った鈴は、デスクの上に置かれた小さな箱に気づいた。見慣れない箱だった。恐る恐る開けてみると、中には、一枚の古い写真が入っていた。それは、5年前、彼と別れる直前に、公園のベンチで撮った写真だった。あの頃の、二人とも、まだ、何も失う前。
写真の裏には、小さな文字でこう書かれていた。
「あの約束、覚えているか?」
約束? 鈴は、血の気が引くのを感じた。そんな約束、しただろうか? 記憶の底に、何か、封印されたような感覚が蘇りかけた、その時、スマートフォンの画面が点灯した。見知らぬ番号からのメッセージだった。
「明日、君の会社に、僕の父が来る。君と、話があるそうだ」