御曹司の秘書は噓をつく

Chapter 3 — 氷の微笑、漆黒の契約

「父さん…」

有紗の声は震えていた。スマートフォンの冷たい感触が、手のひらにじわりと汗を滲ませる。電話の向こうから聞こえる父の声は、いつもより覇気がなく、焦燥感が滲んでいた。

「有紗、お前、郁也様と話してくれたのか…? あの方、取引の話…」

「取引…? 父さん、一体どういうことなの? 郁也さんは、私の父さんの会社を…」

有紗が言葉を続けようとすると、父は慌てたように遮った。

「いや、違うんだ。これは、お前のためでもあるんだ。柊グループの力があれば…」

「私の為? pawn(駒)にされることが、私の為なの?」

有紗の言葉に、父は何も言い返せなかった。沈黙が、二人の間を重く支配する。

「…わかったわ。でも、条件がある」

有紗は、決意を固めた。このままでは、父も会社も、そして自分自身も、郁也の掌の上で弄ばれるだけだ。

「条件だと…? 何でも言ってくれ!」

「父さん、会社を渡す代わりに…郁也さんとの結婚生活、私に自由をください。父さんを、もうこれ以上、あなたの駒にさせないで」

有紗は、震える声で訴えた。父は、息を呑み、しばらく黙っていたが、やがて絞り出すように答えた。

「…わかった。お前がそう望むなら…」

電話を切った有紗は、静かにバルコニーの縁に手をかけた。眼下に広がる夜景は、宝石のようにきらめいていたが、今の有紗には、その輝きは虚しく冷たいものにしか感じられなかった。

(私に、自由なんて…あるのかしら…)

その時、背後から静かに声がかけられた。

「奥様、夜風は冷えますよ」

振り向くと、そこにはいつの間にか柊郁也が立っていた。漆黒のスーツは夜に溶け込み、その表情は微かに微笑んでいるようにも見えたが、その瞳の奥には底知れぬ冷たさが宿っていた。

「あなたの父上と、お話はついたようですね」

郁也は、有紗にゆっくりと近づいた。その距離は、二人の間に流れる緊張感を一層高める。

「…ええ」

「では、これで私の計画も順調に進む。君も、約束は守ってもらうよ」

郁也は、有紗の顎に指をかけ、顔を無理やり自分の方へ向けさせた。その指先は氷のように冷たく、有紗の肌を凍えさせる。

「忘れないでほしい。君は私のものだ。そして、君の父上の会社も、私のものになる」

その言葉と共に、郁也の唇が、有紗の唇に吸い寄せられるように近づいてきた。有紗は、抵抗することもできず、ただ目を固く閉じた。しかし、迫りくる唇から感じたのは、熱ではなく、氷のような冷たさだった。

―――

翌日、有紗は父から渡された一通の契約書に目を通していた。そこには、会社譲渡に関する条項と共に、彼女自身の結婚生活に関する、あまりにも屈辱的な条件が記されていた。そして、その契約書の末尾に、父の震えるような筆跡で書かれた署名と、そして―――。有紗は、その文字を見て息を呑んだ。それは、父でも、郁也でもない、全く別の人物の署名だった。