夫の役を演じていたら、本当の夫になっていた
Chapter 3 — 真夜中の告白、偽りの誓い
銀座の喧騒は、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。高柳蓮の黒いセダンは、夜の闇を切り裂くように疾走していた。助手席に座る白石凛は、膝の上で指を絡ませ、緊張で硬直していた。
「あの…」
凛が口を開こうとした瞬間、蓮が静かに言った。
「もう少し、我慢してくれ。すぐに着く」
その声には、普段の冷静さとは異なる、切迫した響きがあった。凛はそれ以上何も言えず、ただ窓の外を流れる街灯の光をぼんやりと眺めていた。榊原悠真の絶望に満ちた顔が、脳裏をよぎる。彼に、嘘をついてしまった。この結婚が、全て偽りであること。
蓮の実家は、都心から離れた閑静な住宅街にひっそりと佇んでいた。しかし、その静けさとは裏腹に、家の中からは重苦しい空気が漂っていた。玄関のドアを開けると、使用人らしき人物が数名、硬い表情で出迎えた。
「若様、おかえりなさいませ。奥様が…」
使用人の言葉は、凛の耳には届かなかった。蓮に促され、リビングに通されると、そこには既に数名の親族らしき人々が集まっていた。皆、表情は硬く、重々しい沈黙が支配していた。蓮の父親らしき人物は、ソファに座り、やつれた顔で目を閉じていた。その傍らには、点滴の管が繋がれている。
「蓮…」
父親がかすれた声で蓮を呼んだ。蓮は凛の手をそっと握り、父親の元へ歩み寄った。
「父さん、どうしたんだ?」
「…もう、長くないかもしれん」
父親は、苦しそうに息をしながら、蓮に何かを伝えようとした。その言葉に、凛は息を呑んだ。蓮の抱える「家族の緊急事態」とは、こういうことだったのか。
蓮は、凛の肩に手を置き、ゆっくりと顔を向けた。その瞳には、これまで見たことのない種類の痛みが宿っていた。
「凛、俺は…お前をここに連れてきたことに、理由がある」
蓮は、凛の手を強く握りしめた。
「父さんは、俺に…お前との結婚を、強く望んでいたんだ。俺が、お前のような女性と巡り会えることを、ずっと願っていた」
凛は、蓮の言葉が信じられなかった。契約結婚の理由が、彼の父親の願いだったというのか?
「そんな…」
「でも、それは建前だ」
蓮の声が、突然低く、鋭くなった。リビングの空気が一変した。親族たちは、息を呑んで蓮を見た。
「父さんの病状は、確かに芳しくない。だが、俺が今、お前をここに連れてきた本当の理由は、別にある」
蓮は、凛の目を真っ直ぐに見つめた。
「父さんの病状が急変したと連絡を受けた時、俺は…お前が、悠真に会っているところを見たんだ」
凛は、心臓が凍りつくのを感じた。あの時の、悠真の悲痛な顔。そして、蓮の冷たい視線。
「お前は、俺との契約を、破ろうとしていた。俺は、それを許すことができない」
蓮の声は、冷酷な響きを帯びていた。凛は、自分がどれほど浅はかな考えで、この契約に臨んでいたのかを思い知らされた。悠真への未練。そして、蓮への裏切り。
「…ごめんなさい」
凛は、絞り出すような声で呟いた。
「許しは、求めない」
蓮は、凛の手を離した。そして、父親の病室へと向かうために、背を向けた。
「ただ、今日から、お前は俺の妻だ。俺の家の人間だ。俺の言うことを聞け」
その言葉は、命令だった。凛は、その場に立ち尽くすしかなかった。悠真への罪悪感、蓮への恐怖、そして、この契約結婚の重さ。全てが、彼女を押し潰そうとしていた。
蓮は、父親の病室のドアの前で立ち止まった。深く息を吸い込み、ゆっくりとドアを開けた。しかし、その部屋の中にいたのは、父親ではなかった。そこにいたのは、見慣れた顔。しかし、その顔には、これまで見たことのない、冷たい微笑みが浮かんでいた。
「おかえり、蓮。そして、そちらが…新しいお母様、かな?」
その声の主は、高柳グループの副社長であり、蓮の叔母にあたる人物だった。彼女が、この場にいるはずのない理由。そして、その口元に浮かぶ、不敵な笑み。凛は、この家で、さらに深い闇に足を踏み入れてしまったことを悟った。