表参道のカフェで拾われた私の新しい人生

Chapter 3 — 沈黙の瞳、偽りの涙

片桐邸の書斎に、重苦しい沈黙が支配していた。宇佐美柊は、目の前で倒れ伏す三条胡桃の姿を、ただ茫然と見つめている。先ほどの唐突な告白、そして理沙への婚約破棄の承諾。そのすべてが、まるで現実離れした悪夢のようだった。

「……胡桃?」

柊が震える声で呼びかけると、胡桃はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、先ほどまで見せていた大胆な芝居とはかけ離れた、儚げな悲しみが宿っている。だが、その涙の真偽を確かめる余裕は、今の柊にはなかった。

「理沙様……」

胡桃は、柊ではなく、書斎の入り口に立つ理沙に視線を向けた。理沙は、無表情のまま、二人のやり取りを静観していた。婚約破棄を受け入れられたことへの安堵か、それとも胡桃の演技への侮蔑か、その表情からは一切読み取れない。

「私……柊様と、一緒になりたいんです」

胡桃は、理沙に向かって、まるで謝罪するように言った。そして、再び柊の胸に顔を埋める。

「でも……理沙様が、私を許してくださらなければ……」

その言葉に、柊は理沙へと顔を向けた。理沙の反応を待つかのように、彼は理沙の瞳をじっと見つめる。書斎に差し込む西日の光が、二人の間に横たわる複雑な感情を映し出しているようだった。

「……」

理沙は、何も言わない。ただ、その澄んだ瞳で柊を見つめ返している。その視線には、責めるような色もなく、かえって柊を戸惑わせる、静かな強さがあった。

「理沙、君は……」

柊が何かを言いかけようとした、その時だった。

「お嬢様、お呼びでしょうか」

書斎の扉が静かに開き、執事の影山が姿を現した。彼の落ち着いた声が、張り詰めた空気をわずかに揺るがす。

「影山……」

理沙は、影山に視線を移した。その声には、微かな安堵の色が滲んでいるように聞こえた。

「胡桃様が、お腹のお子様のことについて、お話があるとのこと。しかし、お嬢様のご意思を尊重したいと、私に申しておりました」

影山は、理沙にそう報告した。胡桃は、顔を上げ、理沙に訴えかけるような視線を送る。

「理沙様……私、本当に、柊様のお子を……」

胡桃が言い終わる前に、理沙は静かに口を開いた。

「わかっていますわ、三条さん」

理沙の冷静な声に、胡桃は息を呑んだ。柊もまた、理沙の予想外の反応に目を見開く。

「あなたの妊娠が真実であるかどうか、私には関係ありません」

理沙は、まっすぐに胡桃を見据えた。その瞳は、揺るぎない決意に満ちている。

「ただし……」

理沙は、言葉を区切った。書斎の時計の針が、カチリ、と音を立てる。その音が、やけに大きく響く。

「もし、そのお子が、本当に柊様の御子であるならば……」

理沙は、ゆっくりと、しかしはっきりと、告げた。

「私は、この婚約を、喜んで解消いたしましょう」

その言葉は、扇動的なものではなく、あくまで事実を述べるような、淡々とした響きを持っていた。しかし、その言葉が持つ意味の重さは、書斎にいた全員に衝撃を与えた。胡桃の顔から血の気が引き、柊は言葉を失い、影山は微かに眉をひそめた。

理沙は、胡桃の妊娠を疑っているのではない。むしろ、その真偽さえも、彼女にとっては重要ではないのだ。彼女が求めているのは、ただ婚約の解消。そして、そのための手段として、胡桃の「妊娠」というカードを、逆手に取ろうとしているかのように見えた。

「ですから、三条さん。どうぞ、その……『事実』を、柊様にお伝えくださいませ」

理沙は、胡桃に微笑みかけた。それは、嘲笑にも、同情にも、そして皮肉にも見える、曖昧な微笑みだった。胡桃は、その微笑みに射抜かれたかのように、身動き一つできなかった。

柊は、理沙のあまりにも冷徹な言葉に、動揺を隠せない。彼女の本当の狙いは何なのか? 婚約破棄を望むはずの理沙が、なぜ今、胡桃の「妊娠」を肯定するような言葉を口にするのか?

その時、胡桃の顔に、突然、苦痛の色が走った。彼女は、お腹を押さえ、小さく呻き声を漏らす。

「……うっ……」

「胡桃!」

柊が駆け寄ろうとした瞬間、胡桃は、理沙に向かって、最後の力を振り絞るように言った。

「……理沙様……嘘……です……」

その言葉を最後に、胡桃は、硬直したように、その場に崩れ落ちた。瞳は、開いたまま、虚空を見つめている。まるで、息絶えたかのように。

「胡桃!!」

柊の絶叫が、書斎に響き渡った。