喧嘩の後のコーヒーは、なぜか甘い

Chapter 3 — 硝子の靴と、秘密の誓い

スマートフォンの画面に表示された「母」の文字に、亜美の心臓は冷たく凍りついた。腕を掴んでいた鷹取の指が、その場でぴたりと止まる。

「どうした? 顔色が悪いぞ」

鷹取の声は、いつも通りの冷徹な響きを失い、わずかに心配の色を帯びていた。しかし、亜美はそれに答える余裕もなかった。震える指で、彼女は通話ボタンを押した。

「もしもし……母さん?」

「亜美……ごめんね、こんな時間に……」

電話の向こうから聞こえる、弱々しくも優しい母の声。その声を聞いた途端、亜美の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。

「母さん、大丈夫? どこか痛むの?」

「ううん、大丈夫よ。ただね、あのね……」

母は言葉を濁し、何かを言い淀んでいる。亜美は息を呑んだ。まさか、母の容態が急変したのだろうか。それとも、何か隠していることがあるのだろうか。

「亜美、あなたに話があるの。……実は、お父さんの借金のこと、私、知ってるのよ」

その言葉に、亜美は息を止めた。鷹取も、静かに亜美の様子を窺っている。

「え……? 母さん、いつから……」

「ずっと、気づいてたわ。お父さんが隠れて、何度も業者さんと会ってたから……。でも、あなたに心配かけたくなくて……。でもね、亜美、もう限界なの。このままじゃ、あなたまで借金に巻き込まれてしまうわ」

母の声は震えていた。亜美は、母を一人で抱え込ませていたことを激しく後悔した。そして、鷹取の提案が、どれほど自分たち親子にとって救いになるかを、改めて実感した。

「母さん、心配しないで。私、ちゃんと考えてるから。……そして、もう一人で抱え込まない。……私、結婚することにしたの」

「……え? 結婚……? 誰と……?」

母の声に、驚きと戸惑いが混じる。亜美は、深呼吸をして、鷹取の方を見た。彼は、亜美の言葉に静かに頷いた。その眼差しは、以前のような冷たさではなく、不思議な温かさを湛えていた。

「……鷹取さん。会社の……」

「そうよ。彼となら、きっと……」

亜美は、母に嘘をつくことに罪悪感を覚えながらも、この偽装結婚が、自分たち家族にとって最善の道だと信じたかった。母に安心してもらうため、そして、自分自身のためにも。

「……そう。あなたがそう決めたなら、お母さんは……」

母は、まだ戸惑いながらも、亜美の決断を受け入れようとしてくれているようだった。亜美は、涙を拭い、鷹取に向き直った。

「……ありがとう、鷹取さん。私、頑張ります」

「ああ。君ならできる」

鷹取は、亜美の髪を優しく撫でた。その手つきは、もはや上司と部下、あるいは偽装夫婦という関係性を超えた、何か親密な響きを帯びていた。亜美は、その温もりに、思わず目を閉じた。この偽装結婚が、本当に二人だけの秘密の誓いになる日が来るのだろうか。その時、スマートフォンの画面に、鷹取の名前が表示されているのに気づき、亜美は息を呑んだ。それは、鷹取が亜美の母親に電話をかけるための、鷹取の連絡先だった。

「……まさか、もう……」

鷹取は、亜美の動揺に気づき、悪戯っぽく笑う。

「俺も、君の母親には、きちんとした挨拶をしておきたいからな。……さあ、行こうか。君の母親に、正式な婚約者として、俺を紹介しに」

亜美は、鷹取の強引さに抗うこともできず、ただ彼の隣に立つしかなかった。この結婚は、本当に、ただの偽装で終わるのだろうか。