初夜の棘

Chapter 3 — 真夜中の鳥籠

電話の呼び出し音は、瑞希が眠る部屋に不気味な静寂を破って響いた。

東堂ホテルのスイートルーム。カーテンは厚く引かれ、都会の喧騒を完全に遮断している。重厚な調度品と、どこか冷たい空気が漂う部屋。瑞希は、真田克己の隣で眠っていたはずだった。しかし、今、彼女の震える手は、枕元に置かれた見慣れない携帯電話を掴んでいた。画面には「着信中」の文字。発信元は不明。

「もしもし…?」

か細い声が、瑞希の喉から漏れた。応答はない。ただ、かすかな呼吸音だけが聞こえる。それは、まるで彼女の息遣いを真似るかのようだ。

「誰…? 誰なんですか!」

恐怖に駆られ、瑞希は声を荒げた。その時、電話の向こうから、低く、しかしはっきりと、聞き覚えのある声が響いた。

「瑞希…」

その声は、彼女が最も聞きたくない、そして最も聞きたいと願っていた声だった。死んだはずの母親の声。

「お母さん…? うそ…、なんで…?」

涙が溢れ、視界が滲む。信じられない。これは悪夢だ。それとも、克己が仕掛けた、残酷な罠なのか。

「大丈夫よ、瑞希。怖がらないで…」

母親の声は、昔と変わらず優しかった。しかし、その優しさの裏に潜む、何か得体の知れない響きに、瑞希は背筋が凍るのを感じた。

「どうして…、どうして生きているの…? あの日…、あの事故で…」

「色々と、事情があってね…」母親は言葉を濁した。「でも、もう心配いらないわ。お母さん、ずっと傍にいるから」

傍にいる? 誰の傍に? 克己の? それとも、この電話をかけてきた、あの冷たい「何か」の傍に?

「写真…、手紙…、あれは何だったの? 克己さんが…、あなたと…」

「後で、全部説明するわ。今は…、とにかく、落ち着いて」

母親はそう言うと、不意に言葉を切った。そして、代わりに聞こえてきたのは、かすかな、しかし確かな、金属が擦れるような音だった。

「…何?」

瑞希は息を呑んだ。電話の向こうで、何かが動いている。その音は、まるで、彼女が初夜に感じた、背中に押し付けられた冷たい「何か」の音に似ていた。

「お母さん、何なの…?」

返事はない。ただ、息苦しいほどの沈黙が続く。

その時、部屋のドアが静かに開いた。音もなく現れたのは、真田家執事だった。彼の顔には、いつもの平静さとは異なる、微かな緊張の色が浮かんでいる。

「奥様。少々、お話が…」

執事が言葉を発した瞬間、瑞希は手の中の携帯電話から、母親の荒い息遣いを聞いた。そして、すぐさま、電話が切れた。

「…切れた…!」

瑞希は携帯電話を握りしめ、執事を見上げた。彼の背後には、すでに朝の光が差し込み始めていた。しかし、部屋の空気は、夜の闇よりもなお濃い、不穏な気配に満ちていた。

「何があったの? あの電話は…」

執事は、瑞希の問いかけに、静かに首を振った。

「恐れながら、奥様。…旦那様が、お探しです」

「克己さんが…?」

瑞希が息を呑んだ瞬間、執事は、部屋の片隅に置かれていた、小さな黒い箱を手に取った。

「これは、旦那様が、奥様のために用意されたものです」

箱は、まるで宝石箱のように、精巧な細工が施されていた。瑞希が戸惑っている間に、執事は箱を開け、中身を取り出した。それは、瑞希が探していた、あの写真だった。

「これは…!」

写真には、幼い頃の瑞希と、見知らぬ女性が写っていた。瑞希は、その女性の顔を凝視した。そして、信じられないことに、その女性の面影が、先ほどの電話の声の主、母親と重なることに気づいた。

「…これは、私の母…?」

執事は、静かに頷いた。

「左様でございます。そして…」

執事は、写真の裏に、小さな文字で書かれたメッセージを指差した。

「『お前は、もう逃げられない』…と」

その言葉は、まるで呪いのように、瑞希の心に響いた。彼女は、写真に写る母親の表情を、もう一度見つめた。そこには、懐かしさとは違う、何か冷たい、計算されたような光が宿っているように見えた。

そして、その瞬間。

部屋のドアが、勢いよく開け放たれた。そこに立っていたのは、眠そうな顔をしながらも、その瞳には鋭い光を宿した、真田克己だった。

「瑞希。まだ、そんなところで油を売っていたのか」

克己の声は、冷たく、そして有無を言わせぬ響きを持っていた。彼は、瑞希の手の中にある写真に目を留めた。

「ほう…、あの写真が出てきたか。いいだろう」

克己は、ゆっくりと瑞希に近づき、その顎を乱暴に掴んだ。

「お前はもう、俺から逃げられない。母がそうであったように、お前も、この檻から出ることは許されないのだ」

克己の言葉は、瑞希の心を凍りつかせた。母がそうであったように…? 檻…?

「この結婚は、お前だけの鎖じゃない。俺も、この結婚という名の鳥籠に囚われているのだ。だからこそ、お前を、どこにも行かせない」

克己は、瑞希の顔を、まるで値踏みするかのように見つめた。その瞳の奥に、黒い炎のようなものが燃え盛っているのが見えた。

「さあ、瑞希。俺の妻として、その役目を果たしてもらう」

克己は、瑞希の肩に手をかけ、部屋の奥にある、重厚な扉へと彼女を押しやった。その扉は、まるで地下へと続くかのように、暗く、そして冷たい空気を放っていた。

「そこは、お前がこれから過ごす場所だ。俺の妻としての、お前の場所だよ」

瑞希は、恐怖に竦み上がり、抵抗しようとした。しかし、克己の力は圧倒的だった。彼女は、抵抗むなしく、その暗い扉の前へと立たされた。

「嫌…、行きたくない…!」

瑞希の叫びも虚しく、克己は冷酷な笑みを浮かべながら、彼女の背中を強く押した。

「おとなしくしろ、瑞希。これは、お前が選んだ道だ」

瑞希の体が、暗い扉の向こうへと、ゆっくりと吸い込まれていく。その扉が、彼女の行く末を閉ざすかのように、ゆっくりと、しかし確実に、閉まり始めた。

その時、瑞希の背後で、克己が囁いた。

「お前の母親が、そうであったように…」

扉が、完全に閉まる寸前、瑞希は、克己の言葉の真意を悟ったような気がした。そして、彼女の全身を、底知れぬ絶望感が支配した。

扉は、完全に閉まった。

部屋には、残された克己だけが、静かに立っていた。彼の顔には、満足とも、それとも別の感情ともつかない、複雑な表情が浮かんでいた。