五年ぶりの「ただいま」が言えなくて
Chapter 3 — 鉄骨の影、甘い囁き
錆びついた鉄骨の隙間から差し込む、薄暗い照明。吐き気を催すような血の匂いが鼻腔をくすぐった。芽依は息を呑み、その場に立ち尽くす。倉庫の奥で、倒れ伏している晃の姿。
「芽依……!」
掠れた声が、暗闇に響いた。晃は、荒々しい力で地面に押さえつけられていた。彼の顔は殴られた跡で赤く腫れ上がり、口元からは血が滲んでいる。その傍らには、威圧的な体格の男が仁王立ちしていた。社長令嬢の父親――間違いない。
「なんだ、貴様は。邪魔をするなら容赦しないぞ」
男は冷たい目で芽依を睨みつけ、一歩踏み出した。芽依の足は竦んだ。逃げるべきだ。晃の「来るな」という言葉が頭の中で木霊する。しかし、地面に横たわる晃の姿が、彼女の足を縫い付けて離さない。
(逃げられない……晃を、一人にはできない……!)
芽依は震える拳を握りしめた。晃が、必死にこちらを見ている。その瞳には、怒りと、そして……助けを求める光が宿っていた。三年前に、何も告げずに去っていったあの男と同じ瞳。しかし、今の晃の瞳には、それだけではない、もっと切実な感情が映っていた。
「離して!」
芽依は、自分でも驚くほどの大きな声で叫んだ。その声は、倉庫の冷たい空気に吸い込まれるように響く。
「ほう、随分と度胸のある女だな。晃の連れか?」
男は嘲るように笑った。晃は、その隙をついて、地面を這うようにして芽依の方へ腕を伸ばした。
「芽依、逃げろ……!」
その言葉を聞き、芽依の心臓が締め付けられる。彼の無事を願う気持ちと、彼を置いて逃げることへの罪悪感。どちらも芽依を苛んだ。しかし、男が晃の腕を掴み、再び地面に叩きつけようとした瞬間、芽依は決断した。
「晃!」
彼女は、叫びながら男に向かって駆け出した。男は突然のことに戸惑った表情を見せたが、すぐに芽依を突き飛ばそうと手を振り上げる。その瞬間、芽依は男の足元に転がっていた鉄パイを掴み、無我夢中で振り回した。
「ぐっ!」
予期せぬ反撃に、男はバランスを崩し、よろめいた。その隙に、芽依は晃の元へ駆け寄り、彼の体を支えた。
「芽依……!」
晃は、芽依の顔をじっと見つめた。血に濡れた顔で、それでも彼は微笑もうとしたように見えた。
「無事で……よかった」
芽依の声は、震えていた。晃の傷ついた体は、彼女が抱きしめるにはあまりにも痛々しかった。男は怒りの形相で立ち上がり、再び二人に迫ろうとしていた。しかし、その時、倉庫の入り口にパトカーのサイレンが鳴り響いた。
「まずい、誰かが通報したか……」
男は舌打ちし、晃と芽依を一瞥すると、暗闇の中へと姿を消した。サイレンの音が近づき、数人の警官が倉庫に駆け込んできた。彼らは状況を把握し、晃と芽依に駆け寄った。
「大丈夫ですか!?警察です!」
芽依は、晃の肩を抱きしめたまま、安堵の息をついた。晃は、芽依の肩に顔を埋めるようにして、静かに呟いた。
「ありがとう……芽依」
その声は、三年間の沈黙を破る、甘く、そして切ない響きを帯びていた。芽依の心臓が、激しく高鳴るのを感じた。彼を助けられたという安堵感と、再び彼の温もりを感じられたことへの喜び。しかし、その喜びはすぐに、新たな不安へと変わった。晃は、社長令嬢と婚約しているはずだ。この抱擁は、一体何を意味するのだろうか。
警官が晃に話を聞こうとしたその時、芽依のスマートフォンの画面が点灯した。見慣れない番号からの着信。恐る恐る通話ボタンを押すと、そこに聞こえてきたのは、あの社長令嬢の声だった。
「天城芽依さん……ですよね?夫に、近づかないでください」
電話の向こうから聞こえてくる、冷たく、そして悲痛な響き。芽依は、晃の肩に置いた手を、ぴくりとも動かせなかった。晃は、彼女の肩に顔を埋めたまま、微かに身じろぎをした。