嘘つきな婚約者

Chapter 3 — 偽りの指輪、真実の囁き

冷たい雨が、表参道の石畳を濡らしていた。如月奈央太朗(とど・なおたろう)との婚約披露パーティーの翌日。奈央(なお)は、高層ビルの窓から、灰色の空を見つめていた。昨夜のニュースが頭から離れない。如月グループを揺るがす、大規模な不正経理のスキャンダル。父が、そして奈央太朗が、どれほど激しく動揺していたか、あの短い電話越しにも伝わってきた。

「…どうなるのかしら」

呟いた声は、雨音にかき消された。会社では、周囲の視線が痛いほど突き刺さる。誰もが、あのニュースについて噂しているのだろう。奈央は、自分の席に戻り、パソコンの画面を見つめたが、文字はぼやけて、頭に入ってこない。指輪が、重く感じられた。奈央太朗から贈られた、シンプルだが上質なプラチナの指輪。これが、真実の愛の証ではなく、ただの取引の証として、今、虚しく光っているように思えた。

昼休み。奈央は、誰にも気づかれないように、会社を出た。向かう先は、暖(しょうた)との待ち合わせ場所。あのスキャンダルのニュースが流れた後、暖から「すぐに話したいことがある」と、切迫したメッセージが届いていた。内容は、それこそスキャンダルに関わることなのか、それとも別の、もっと個人的なことなのか。

静かなカフェ。店内の片隅、窓際の席に、暖が座っていた。いつものように、柔らかな笑顔を浮かべているが、その瞳には、深い憂いが宿っているように見えた。

「奈央。来てくれてありがとう」

「…暖。どうしたの?メッセージ、すごく心配だった」

奈央は、向かいに座り、コーヒーカップを両手で包み込んだ。暖は、少し間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。

「…奈央太朗さんのこと、そして、如月グループの件で、俺が知っていることがあるんだ」

「え…?」

「あのスキャンダル、ただの不正会計じゃない。もっと、深い闇が、あのグループにはある」

暖の言葉は、静かだったが、奈央の心臓を強く掴んだ。奈央太朗の冷たい視線、彼の感情を一切見せない仮面、そして、あのスキャンダル。全てが、繋がっているのだろうか。

「…具体的に、どういうこと?」

「…奈央、君は、あの男と、本当に結婚したいのか?君の幸せを、本当に願っているのか?」

暖の問いかけは、奈央の心の奥底に眠っていた、本当の感情を揺さぶった。奈央太朗の支配的な態度、感情を押し殺して生きる日々。そこに、本当に自分の幸せはあるのだろうか。

「俺は、君を、あの男の元から、連れ出したい。君を、解放したいんだ」

暖は、奈央の手を、そっと握った。その温かさが、雨で冷え切った奈央の心を、少しだけ溶かしていくようだった。しかし、その時。

「…奈央」

背後から、氷のように冷たい声が響いた。奈央は、凍りついた。暖は、素早く手を引いたが、もう遅かった。

奈央太朗が、二人のテーブルのすぐ後ろに立っていた。漆黒のコートを纏い、その瞳は、暗い怒りに燃えている。彼の視線は、暖、そして奈央へと、交互に注がれた。その表情は、まるで、裏切られた飼い主のようだった。

「…これは、どういう状況かな、奈央」

彼の声は、静かだったが、その静けさの中に、嵐のような激しさが秘められているのが、奈央には分かった。暖も、警戒心を露わにして、奈央太朗を見据えている。三人の間に、張り詰めた空気が流れた。雨音だけが、遠くで聞こえている。

奈央太朗は、ゆっくりと奈央の隣に歩み寄り、その肩に、冷たい手を置いた。その手は、まるで、獲物を囲う檻のように、奈央を閉じ込めるかのようだった。

「君は、私との結婚を、まだ真剣に考えていると思っていたよ」

その言葉に、奈央は、息を呑んだ。奈央太朗は、一体、どこまで知っているのだろうか。そして、この状況を、どう乗り越えればいいのか。

「…奈央太朗さん、これは、誤解です」

暖が、割って入ろうとした。しかし、奈央太朗は、暖を一瞥しただけで、その言葉を遮った。

「君には、関係ない。さあ、奈央。君には、話したいことがある」

奈央太朗は、奈央の肩を、ゆっくりと、しかし確かな力で、引き寄せた。抵抗する間もなく、奈央は、奈央太朗の腕の中に、引きずり込まれるように、抱き寄せられた。彼の胸は、冷たい鉄のように硬かった。暖は、悔しそうに、奈央太朗を睨みつけた。

「…奈央」

奈央太朗は、奈央の耳元に顔を寄せ、冷たい声で囁いた。その声は、まるで、毒のように、奈央の意識を侵食していく。

「君は、もう、俺から逃げられないんだよ」

奈央は、絶望的な状況に、ただ立ち尽くすしかなかった。暖の助けも、もう届かないのかもしれない。奈央太朗の腕の中で、奈央は、この冷たい誓いの指輪を、改めて、指に感じていた。それは、これから始まる、更なる束縛の予感だった。