悪役令嬢が変えたのは、ジャンルではなくライトノベル市場の構造だ

2014年に始まった悪役令嬢ブームは、ジャンルを生んだのではなく、ライトノベル市場の構造を書き換えた。女性読者を発見した出版業界の十年を、データと出版社の動きから読み解く。

林みずき · 10 分で読める ·
悪役令嬢が変えたのは、ジャンルではなくライトノベル市場の構造だ — トレンド

2014年7月、山口悟という作者が小説家になろうに『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』を投稿した。主人公は八歳の貴族令嬢カタリナ・クラエス──頭を打った瞬間、前世が乙女ゲーム『FORTUNE LOVER』を遊んでいた女子高生だったと思い出し、現世の自分はそのゲームの「悪役」役だと気づく。文体は軽く、構成はシリーズもの。十年後の二〇二四年八月、この作品はメディアミックス全体で累計六〇〇万部を突破し、文庫十五巻、テレビアニメ二期、劇場版、Switchゲーム、スマートフォンゲームへと展開している。

「悪役令嬢」というジャンル名で語られる現象が、二〇一〇年代後半から二〇二〇年代の日本のライトノベル市場を構造的に書き換えた──こう述べると、多くの業界記事は「異世界転生ブームの一支流」と短くまとめてきた。それは正しい。だが正確ではない。

悪役令嬢ブームが変えたのは、ジャンル分類ではない。ライトノベル市場が女性読者を主要客層として承認した──その十年だ。

出版社の判断同時並行で起きた連鎖書籍化

まず、出版社側の動きを見る。

『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』(以下、ハメフラ)は二〇一五年八月、一迅社の女性向けレーベル「アイリス文庫」(二〇〇七年創刊)から書籍化された。これは特異な選択ではない。アイリス文庫は当時、既に「女性向けライトノベル文庫」という建付けで運営されており、ハメフラはその枠の作品として書籍化されたにすぎない。

特異だったのは、その後の数年で起きた連鎖だ。

KADOKAWAのMFブックス、アルファポリス、アース・スターノベル、ドラゴンノベルス、電撃の新文芸、マイクロマガジン社──二〇一七年から二〇二四年にかけて、最低でも六社以上の出版社が「ウェブ小説プラットフォーム発の悪役令嬢作品」をそれぞれ独自に書籍化していった。一社の成功を他社が追ったのではない。複数の出版社が同時並行で、それぞれの編集判断として「この市場は機能する」と承認した。

業界用語で言えば、これは「ジャンル化」ではなく「市場化」だ。

ジャンル化は批評家がやる。市場化は経理がやる。

プラットフォームの選別ランキングが先に告げていた

次に、ウェブ小説プラットフォームの構造を見る。

小説家になろうのランキングシステムは、編集者の介入なしに作品を順位付けする。読者のブックマーク数とPV数だけが評価軸だ。二〇一三年に投稿された『謙虚、堅実をモットーに生きております!』は、悪役令嬢転生の系譜上、ハメフラより一年早い起点として知られている。出版業界がこの系譜を発見する前に、ランキングはすでに告げていた。

ランキングが先に告げ、棚が次に応えた。出版社の承認はその後だ。
ランキングが先に告げ、棚が次に応えた。出版社の承認はその後だ。

二〇一六年、KADOKAWAは独自のウェブ小説プラットフォーム「カクヨム」を立ち上げる。これは小説家になろうの一強状態を脅かす意図と同時に、自社系列で女性作家を囲い込む構造だった。事実、二〇二〇年代に入ると、カクヨム発の悪役令嬢作品が複数の出版社に書籍化されていく。プラットフォーム間の競合が、女性向けウェブ小説市場が「囲い込むに値する」資産だと、出版業界が認知した証左だ。

プラットフォームは作品を「育てた」のではなく「選別した」。書き手も読み手もすでに存在していた。ランキングが可視化した。出版社が承認した。順序はこの通りでしかない。

読者層の発見二〇代女性が市場の柱になった日

そして、読者層側の構造を見る。

出版科学研究所の推計によれば、二〇二二年の紙ライトノベル市場は文庫一〇八億円・単行本一〇三・五億円、合計二一一・五億円規模である。この市場の中で、二〇二三年のライトノベル利用実態調査(Appliv TOPICS)は、二〇代女性が読者層全体で第二位を占めるという結果を示した。男性二〇代に次ぐ位置だ。十代以下では、女性が男性を上回る。

ここで誤解されやすいのが、「悪役令嬢ブームが女性読者を生み出した」という因果の方向だ。データはそれを支持しない。女性読者層は──コバルト文庫(一九七六年創刊)、Beans文庫(二〇〇〇年創刊)、アイリス文庫(二〇〇七年創刊)の系譜を考えれば──既に数十年にわたって市場に存在していた。ただ、男性向け異世界転生(二〇一〇年代前半に隆盛)が業界数字の中心と扱われていた間、女性向けレーベルは「ニッチ」「補助的」と位置づけられていた。

悪役令嬢ブームが行ったのは、女性読者の発明ではない。既存の女性向けレーベルを「主要事業」として再評価させたことだ。KADOKAWAの二〇二三年三月期(二〇二二年度)決算では、出版セグメントの売上高は一三九九・九億円(前年比五・三パーセント増)を記録した一方、セグメント利益は一三一・五億円(同二四・三パーセント減)に落ち込んだ。売上を伸ばしながら利益を絞った──これは、女性向け媒体横展開IPのような高投資・長期回収モデルへ事業構造をシフトさせている兆候として読める。

承認の十年そしてその先

「悪役令嬢」は女性読者を発明したのではない。出版業界が、すでに存在していた読者層を、商業的に承認した。その承認の十年が、いまの構造を作っている。

そして、その構造はまだ若い。

二〇二四年、KADOKAWAは「国内ライトノベル読者層の縮小」を理由に、海外作家の発掘事業を強化すると発表した。これは一見、悪役令嬢が築いた構造への撤退に見える。だが正確には逆だ。国内女性読者層という「再発見された市場」を維持するために、供給側の多様化に動いている──そう読むほうが、二〇一四年から二〇二四年の経緯と整合する。

悪役令嬢が定義したのは、ジャンルではない。「ライトノベル市場とは何か」の答えの方を、書き換えた。次の十年は、その答えがどこまで持つかの試金石になる。

執筆:
林みずき
ライトノベル市場と女性読者層の構造分析を専門とする。物語のジャンル論ではなく、流通・出版社・読者層の関係性から作品の意味を読み解く。